2016年5月25日水曜日

国家とは人と人との関係のことであり、世代から世代に受け継がれる行動の形態のこと Landauer to Nettlau,1911

グスタフ・ランダウアーからマックス・ネットラウ宛て1911年6月7日付け書簡より

To Max Nettlau, Hermsdorf near Berlin, June 7, 1911, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.309-311.


1890年代にはじめて出会って以来、ランダウアーは著名なアナーキズムの歴史家マックス・ネットラウと定期的に手紙のやりとりをしていた。この書簡は、『社会主義者』の刊行において積極的な役割を果たすことを辞退するネットラウからの回答への返答である(注1)。ランダウアーは自分の社会主義思想を要約し『社会主義への呼びかけ』の刊行を予告している。

親愛なるネットラウ
 [中略]
 国家とは人と人との関係のことです(これは資本についても同様です)。この関係とは、世代から世代へと引き継がれた(積極的なものも消極的なものも含んだ)行為と忍耐の形態です。エティエンヌ・ドゥ・ラ・ボエシがこのことを簡潔に述べています。
 私は国家の権力を握っている人びとと国家に従う人びとを分断することは受け入れません。人間関係は、人間の行動や態度次第で変わります。アナーキーを実現できるかどうかは、自分たちの行動をいつでも変えられる、という信念を人びとが持っているかどうか次第です。 私たち自身を変え、社会状況を変えるためには、私たちが現在手にしている、限られた自由を活用しなければなりません。そのように私たちが行動できるのか、より多くの自由と結合を私たちが作り出すことができるのか。これらはすべて、他ならぬ私たち自身がどうするか次第です。私たちが使える可能性を、私たちがこれまでほとんど活用してこなかったということは、はっきりしていると思われませんか。
 私たちは、遊ぶためにおもちゃになるようなものをたくさん持っている子どものようなものです。いま、子どもたちはそういう多くのものを使うことをかたくなに拒否します。どうしてかというと、年上のきょうだいたちが使ってきた古い人形をほしがっているからです。しかし、より注意を払って多くのおもちゃのなかから煉瓦を選んで、それを使って遊ぶようになれば、古い人形に対する関心はなくなっていきます。実際、この場合、人形は、生命なき消極性と無気力によって特徴付けられた亡霊のようなものです。そしてこの消極性と無気力の亡霊は、私たちの祖先にとりつき、今は私たちにとりついているわけです。(私たちは、この亡霊が生活する民衆にとりつくことももちろん知っています。彼ら民衆は自分たちが持ち運ぶ家の中に隠れているカタツムリのような人びとです).
[中略]
 私は、あらゆる瞬間に、今まさに、現在追及する任務を見いだすことのできない人びと消極性に異議を唱えているだけです。どのような派閥に属しているかに関わりなく、自身と、自らが創造しようとしているものとの間に何も関係を作らないアナーキストは永久に何も作り出しません。私はいかに限られていたとしても、チャンスがある限り「ここがロドスだ、ここで飛べ」(注2)という原則に従います。
[後略]

心からのあいさつを送ります
グスタフ・ランダウアー

(注1)ランダウアーは1911年5月19日付けの手紙で協同作業を提案した。この往復書簡はアムステルダムの国際社会史研究所のマックス・ネットラウ文書に保管されている。
(注2)「ここがロドスだ、ここで飛べ」ということわざは、「話したあとで歩け」と対照的な意味合いがある。起源は、ロドス島でのジャンプ競技での成績を誇らしげに語る競技者に対して、その場にいた人物から、そのことを証明するためにここで飛んでみてくれといわれて、自慢話をしなくなった、というギリシャの逸話にある。

今ここでの革命 ランダウアーからズスマンへ Letter from Landauer to M. Sussmann, January 13, 1919

グスタフ・ランダウアーからマルガレーテ・ズスマンへの1919年1月13日付け書簡より


To Margarete Susman, Krumbach (Swabia), January 13, 1919, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings: A Political Reader, PM Press, 2010, pp.321-322.  

Translated in Japanese by Hikaru Tanaka

 マルガレーテ・ズスマンは、ドイツの左派系の評論家で詩人である。ランダウアーは彼女のパンフレット『革命と女性』(1918年、フランクフルト・アム・マインで出版)に対して感想を送っている。この手紙の中にはドイツで起きている革命に関するランダウアーの簡潔な評価も示されている(注1)。


親愛なる友へ
 あなたの美しいパンフレットは厳しい試験をパスしました。バイエルンの最初の議会選挙の結果をちょうど受け取ったあと、私はあなたのパンフレットを読みおえました(注2)。選挙は、すべて私が予測していた結果となりました。しかしながら、このことはいかなる喜びももたらしません。私たちが孤立の中に居続けた時代、寂しかった時代に、私たちを戻すものです。
 革命では投票や議会に信頼を置いてはいけません。革命においては、大衆を新たに形作り教育するために新しい社会構造を活用しなければなりません。私たちが恐れているのは、古くさくなった政党政治にまたもや関わらなければならないということです。すなわち、反革命とやりとりをすることにならないかということです。民衆が、もうこれ以上受け入れられないと思うところまで悲惨な状況になるまで、この反革命は長い間続くでしょう。
 [中略]
  あなたのパンフレットの中で一箇所については誤っているところがあります。6頁から7頁にかけてのところには加筆が必要です(注4)。革命とは、あらゆる点で、人びとに幸福をもたらすものです。そして、革命は、今ここでの実感の伴った救済を人びとにもたらすのです。私たちがここで関わった革命は、数時間、あるいはおそらく数日間、偉大で現実的でした。なぜなら革命は、解放、身体的な喜び、そして我々の兵士に救済をもたらしたからです。しかしそのあと、どのように進行するか、ということはわからなかったし、人びとに対して現実的なものを提供することができませんでした。すなわち、人びとが苦境から脱することができる何ものかを提供しなかったのです。これで革命の発展が中断しました。この中断はいまだ続いています。
  救済は、新しい経済によってのみもたらされます。危機の際にのみ社会主義は私たちが望むものを提供することができます。社会主義は自由な行動と絶望的な必要性の組み合わせから生まれます。以上のことについて、いくつかは『社会主義への呼びかけ』の新版の序文で述べています。すぐに一部お送りしましょう。他にもたくさんのことをおつたえしなければなりませんが[中略]

親愛なる グスタフ・ランダウアー

(注1)ズスマンはランダウアーの死後彼を追悼して二つの評論を発表している。二つともタイトルは「グスタフ・ランダウアー」である。発表されたのは Masken, 1918-1919およびDas Tribunal, June 1919.
(注2)バイエルが1918年11月に共和国樹立を宣言してから最初に行われた1919年1月12日の選挙で、革命を主導したアイスナー率いる独立社会民主党は社会民主党と保守のバイエルン人民党に大きな差をつけられて敗北した。
(注3)省略 工事中
(注4)ズスマンは「革命の基本的な意味」との「和解」を主張し、革命とは「未来のことであり、現在のことではない」と書いている。Margarete Sussman, Die Revolution und Frau, Frankfurt am Main: Das Flugblatt, 1918, pp.6-7.

 

1870~1892年 ランダウアーの出生から青年期まで(G.クーン、S.ヴォルフ) 1870-1892 Childhood and Youth of Gustav Landauer

1870~1892年 ランダウアーの出生から青年期までG.クーン、S.ヴォルフ

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1870-1892: Childhoood and Youth: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.18-21.
Translated by Hikaru Tanaka

 グスタフ・ランダウアーは1807年4月7日、南ドイツの都市カールスルーエで、世俗的なユダヤ人の家庭で生まれた。父親のヘルマンと母親のローザは、靴屋を経営していた。グスタフには兄がふたりいた。1866年生まれのフリードリヒと1867年生まれのフェリックスである。1868年にはいとこのフーゴーが生まれる。彼はその後リベラルな考え方を持つ企業家として成功し、しばしばグスタフを支援した。フーゴーはグスタフが死去するまでずっと親密な関係を維持した。

Gustav Landauer 1892
成人してからのランダウアーは、家族とは疎遠だった。父親は1900年に、フリードリヒは1901年に死去している。フェリックスは両親の靴屋を継いだ。グスタフは兄たちについて言及することはまれであった。だが、年に一度、夏には母親を訪問しようとしていた。母ローザは1932年、フェリックスは1939年にこの世を去っている。

 ランダウアーの青年時代についてはわかっていることは少ない。父親が設定した職業選択に対して抵抗したようであるが、そういった表だった反抗に関する報告はどこにも見当たらない。「25年前 ヴィルヘルム二世の記念日に寄せて」というエッセーでランダウアーは、フラストレーションを抱えていた高校時代について次のように述べている。「青年時代は一人っきりで」、「劇場、音楽、特に本」に逃避して、たくさんの時間を過ごした、と。

 1888年から1892年まで、ランダウアーは、ドイツ文学とイギリス文学、哲学、美術史を、ハイデルベルク、ストラスブール、そしてベルリンの各大学で学んだ。何度かの中断を除けば、ベルリンは彼が1917年まで住み続けていた場所であった。大学時代に知り合った人物として最も重要なのは、チェコ系オーストリア人の文筆家で言語哲学者のフリッツ・マウトナーだった。彼はランダウアーの知的発展において重要な影響を与えた。
Fritz Mauthner 1849-1923

 ランダウアーが生まれたのは、近代ドイツ国民国家の誕生とほぼ同時だった。1870年から71年までの普仏戦争後、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはドイツ諸領邦国家と大公国を皇帝ヴィルヘルム一世のもとで統一させることに成功した。この事実は重要である。ランダウアーは、いわば新生ドイツ帝国によって産み落とされた子どもだったのである。なぜなら、彼の思想において中心的なテーマは、国家、国民、民衆であり、これらはいずれも、一般的な意味でも特別な意味でも、ドイツ人のアイデンティティに関わていたからである(注2)。ランダウアーはしばしば国家構造の欺瞞生と、国民および民衆の可能性を区別していた。こういった点に注目して、極めて少数ではあるが、彼に関して英語で論評した人びとの中には、彼の思想が「フェルキッシュ運動」と関わっているということをほのめかす者もいるが、こういった指摘は不適切である。

 「フォルクVolk」という名詞と、そこから派生する「フェルキッシュ」という形容詞は、ドイツ語では「民衆」という意味と同義である。19世紀において、民衆は政治的な意味合いを持たされるようになり、一方ではこれは民族主義者によって用いられ(フォルクと外国の支配者の対立、という文脈で)、他方では社会主義者によっても用いられた(フォルクと貴族・王党派・資本家の対立という文脈で)。19世紀半ばにおいては、こういった多様な用法は矛盾しているとは思われなかった。1960年代と70年代における反植民地運動においてと同様に、ヨーロッパの19世紀のナショナリストと社会主義の闘争はしばしばかさなっていたのである。

 統一され強大になったドイツ国民国家という文脈においてのみ、「フォルク」の民族主義的な意味合いが次第に、外国人嫌悪と人種主義のイデオロギー、そして、反セム主義イデオロギーの中に取り込まれていった。この文脈において、フェルキッシュ運動は、「ゲルマン人であること」を理想視する、ほとんどがブルジョワによって占められる運動として登場した。したがって、ランダウアーの著書『社会主義への呼びかけ』(英訳タイトル『社会主義者の呼びかけ』)の英訳者であるバーマンとリュークがその序文で以下のように述べているのには驚かされる。「伝統的マルクス主義は・・・フェルキッシュ運動にある潜在的な左翼の力を獲得することに失敗した」と(注3)。以上の記述は不適切であると思われる。むしろ、論理的な帰結として、わずかな穏健な潮流を除けば、フェルキッシュ運動は、1930年代、ナチスによって吸収された、と考えられねばならない。

 しかし、この出来事は、のちにフォルクという考え方を社会主義者に導入させるような衝撃をもたらさなかった。今日では、ドイツにおけるフード・ノット・ボムズに類似した運動であるVolxKu"che、すなわち民衆キッチンという運動があるぐらいだ。ランダウアーが「民衆劇場Volksbu"hne」の運動に加わったということ、「民衆の自決Selbstbestimmung des Volkes」(注4)を主張し、バイエルン革命の時に「民衆代表Volksbeauftrager」(注5)として行動した、ということについては、すべてにおいて「フォルク」という語に特別の意味があったことではなかった(注6)。「フォルク」について書くということは、「フェルキッシュ」である、ということをすぐさま意味するものではない。

 たしかに1890年代までにはフェルキッシュ運動は重要な政治運動になっていたとはいえ、ランダウアーがフェルキッシュ運動を肯定的に評価したことは一度もない。他方、フェルキッシュ運動を明確に非難した、ということもない。むしろ彼が単に運動をさして深刻なものとして考慮する、ということがなかった、ということだけのようにも見える。彼の著作の中にフェルキッシュという語が出てくることはほとんどない。

 ここまで述べてきたことから、ランダウアーの思想を「フェルキッシュなロマン主義」と表現することは誤解を招くということが言える(注7)。とりわけ、「ロマンティック」というレッテルは、ランダウアーの思想における「非合理性」を示唆することになってしまいかねないが、そういったものは彼の思想には含まれていない。「25年前」というエッセイのなかでランダウアーは、自分が十代の時に好んでいたロマンティックな考え方をその後克服したのは、彼の個人的そして政治的な発展において決定的に重大な瞬間だったという点を極めて明確に説明している。その後ランダウアーが神秘主義を重視するようになったということについても、非合理主義とは一切関係ない。本書に収録されているパンフレット『革命』とそれ以外のいくつかのテキスト、とりわけ「分離を通じてコミュニティへ」は、この点を明確にしている。ランダウアーの文学に関する関心という観点からも「ロマンティック」というレッテルが不適切であることがわかる。文学に関する記述の中でも、ロマン主義に言及することはほとんどない。むしろランダウアーはそれ以上に自然主義の演劇に関心を持っていたようである(注8)。

 もう一つ、若きランダウアーに決定的な影響を与えたのは、ビスマルクによって制定された、いわゆる「社会主義者鎮圧法」である。同法はドイツ帝国において運動を組織する社会主義者を1878年から90年までのあいだ非合法にした。ただし、結果的に同法は、アメリカ合衆国における労働運動を強化する上で役立つことになる。なぜなら、多くのドイツの社会主義者たちはヘイマーケット事件が起きた1887年頃のアメリカに移民したからである。こうしてドイツ系移民は、アメリカにおけるラディカルな労働運動において重要な存在となった。実際、アメリカ社会を構成する大多数の人びとが、ヘイマーケット事件における爆弾爆発の下手人であるとしてドイツ系移民の子孫を非難したほどである(注9)。

 社会主義者鎮圧法が廃止された直後、1890-91年という年はとくに重要であった。ドイツ社会民主党は、エアフルト党大会で以前の「社会主義労働党」から党名を変更するという議題について話し合った。その後、同党は、数十年間にわたってドイツにおける社会主義運動を支配し続けた。ランダウアーはこの頃にベルリンに転居し、社会主義労働党の若いラディカルなメンバーたちのサークルに加わった。彼らは新たに設立された社会民主党のメンバーであるということが否定された。彼らが集うサークルは、独立社会主義者協会Verein der unabha"ngigen Sozialisten あるいは単純に青年派として知られている。

 改良政党の方針、もしくはマルクス主義にうんざりして(当時のヨーロッパにおける社会民主主義者の間では盤石な地位を築いていたイデオロギーであったが)、不満を抱いた社会民主主義者としてアナーキズムへと向かった他のラディカルな社会主義者と異なり、ランダウアーは一度たりとも社会民主主義者の運動に加わったことはない。「25年前」においてランダウアーは次のように述べている。「私は社会主義者になる前にアナーキストになっていた。社会民主主義を経由しなかったアナーキストというのは、極めてまれな事例である」と。

 ランダウアーはドイツ社会民主党を、残忍な政敵としてしかみていない。死の数週間前、彼はバイエルン革命の期間に議会の会合で次のように述べている。「あらゆる歴史のなかで社会民主党ほど嫌悪感を抱かせる存在は他にない」と(注10)。

注 工事中 

2016年5月24日火曜日

シンポジウム「大杉栄と現代」2016年7月2日(土)明治大学和泉キャンパス15:00~ 映画上映は13:00~


「大杉栄と現代」

基調報告:梅森直之、シンポジスト:栗原康 飛矢崎雅也 山中千春 他

司会:田中ひかる


日時:72日(土)15001715


* 13001450 映画上映会(無料) 

『ルイズ その旅立ち』(1997年)藤原智子監督作品 
ゲスト:千原卓司(イメージ・ブレーン代表)



大杉栄全集完成記念祝賀会 17001930 

場所:和泉の社

懇親会費 3500

主催:「大杉栄と現代」企画会議

後援:初期社会主義研究会、ぱる出版
連絡先:osugi.kikaku@gmail.com, 090-1432-2068

2016年5月20日金曜日

ランダウアーの後世への影響 Landauer’s Legacy

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘Landauer’s Legacy’: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.37-41.
Translated by Hikaru Tanaka

G.クーン、S.ヴォルフ「ランダウアーの後世への影響」

 ランダウアーの影響が後世にみられる時期としては、大きく分けてふたつある。
 一つは1930年代半ばまで続く初期の時代である。もう一つの時期は、ランダウアーのルネッサンスが起きた時期であるが、これは他のラディカルなルネッサンスが起きたのと同様に、1960年代の終わりに社会的な蜂起が始まったのと同時である。『革命』のドイツ語版出版に関する経緯をみればこれが反映されている。1907年の最初の刊行以来、『革命は1919年、23年(これは最初の出版社リュッテン・レーニングによるもの)、1974年、1977年(これはアナーキズム出版社として老舗のカーリン・クラーマーより刊行)、そして2003年(ウンラスト出版)の5回である。

 ランダウアーのドイツにおける同時代の影響としては知的なものと実践的なものがある。エーリヒ・ミューザーム、マルティン・ブーバー、ルドルフ・ロッカー、アウグスティン・ズーシー以外にも、ランダウアーの思想と作品は、ヴァルター・ベンヤミン、エルンスト・ブロッホ、ヘルマン・ヘッセ、パウル・ツェラーン、アルノルト・ツヴァイクに影響を与えた。ランダウアーはバイエルン評議会共和国の存在していた時期に著名な二人の同志に長期的な影響を残している。すなわち、エルンスト・トラーとB.トラーヴェンことレット・マルートである。以上の二人はランダウアーに捧げるエッセーを刊行している。

 実践的な領域では、ランダウアーの影響は、ドイツ自由労働者連合のアナルコサンディカリストたちの間に最も強い影響を残した。彼らの中で著名なメンバーとしては、ロッカー、ズーシー、ヘルムート・リューディガーがいた。ランダウアーのテキストはドイツの青年運動(Jugendbewegung)の中で広く読まれた(注147)。ランダウアーの政治的な影響に関しては、これらに比べてあいまいである(注148)。ランダウアーの思想はドイツの共同体運動にも影響を与えた。ベルンハルト・ブラウンは、低ザクセン地域で1919年から23年までに建設されたコミューン、バイエルン地域において1919年から21年までに建設されたコミューンのリストによって、ランダウアーの影響の具体的な例として示している(注149)。1921年にデュッセルドルフで建設されたコミューンの映画がある。労働者は誇らしく大理石の板にランダウアーの横顔を描き「我々は、グスタフ・ランダウアーの精神において、この土地に1921年7月6日に居住地を設立した。そして我々はこの地を「自由の大地」と呼んだ」と記している。「自由の大地」は1923年まで存続した。

 マルティン・ブーバーのめざましい努力のおかげで、ランダウアーの著作は1920年代に、本人の死後に刊行されていった。ブーバーは、ランダウアーが選出して翻訳し、序論を書いた2巻の『フランス革命期間の手紙』を編集した。1920年に、『シェイクスピア 講演録』も2巻で刊行された。『生成する人間 生と文筆についての論集』『はじまり 社会主義に関する論集』(1924年)も刊行された。『グスタフ・ランダウアー 手紙にみるその生涯』は1929に刊行された2巻の書簡集である。

 「感謝の言葉」という1951年に刊行されたみすぼらしいブックレットを除けば、1960年代まで、ランダウアーに関する新しい出版物は出されていない。この1951年のブックレットは、ランダウアーに捧げられたミューザーム、ロッカー、リューディガー、ディエゴ・アバド・デ・サンティリアンによる文章が収録されている。1949年に刊行された『ユートピアへの道』の一つの章をブーバーはランダウアーに捧げている。同書は、ランダウアーが、とくに国際的に人びとの意識から消滅しなかった主な要因である(注150)。

 ドイツ以外では、ランダウアーが最も重要な影響を与えたのはキブツ運動である(注151)。1920年代に社会主義シオニスト、ハポエル・ハザイルの雑誌『労働Die Arbeit』がランダウアー特集を組み、その巻頭文では「本号はグスタフ・ランダウアーの思い出に捧げられている。本号は私たちが抱く彼に対する尊敬の念を表現するものである。・・・グスタフ・ランダウアーは我々を覚醒した人物である。彼は我々の生活を変え、彼は決してこの言葉に言及してはいないとはいえ、シオニズムに新しい意味、新しい力、新しい方向性を与えてくれた。(注152)」。この号はベルリンのユダヤ人民衆の家で1916年5月18日に行った開館式の際にランダウアーが「ユダヤ主義と社会主義」というタイトルで話した内容を収録している。

 ランダウアーがそのような賞賛を好意的に受け取るかは議論が分かれる(注153)。ランダウアーは1912年にベルリン西部で活動するシオニストグループの集まりで「ユダヤ主義と社会主義」という講演を行っている。これは公的な場でランダウアーがユダヤ主義について言及する最初の講演である。しかしランダウアーはシオニズム運動と同じ考えを共有しなかった。1916年11月、彼は、評論家で詩人のマーガレット・ズスマンという良き友人によって書かれたシオニズムに関する文章に全面的に同意している。ズスマンはシオニズムの文化的解釈で知られており、この考え方はユダヤ人国家という理念を拒絶している。

 キブツの思想に関して、ランダウアーが関心を抱いていたのはたしかである。1919年3月、死の直前、彼は世界ユダヤ人会議の共同設立者で長期間にわたり議長を務めることになるナフーム・ゴルトマンと文通をしていた。その後、1919年4月、ゴルトマンはパレスチナでの入植に関して討議する会議にランダウアーを招待し、また、ミュンヒェンでの「小規模の事前会議」へも招待していた。ゴルトマンはランダウアーに対して、いくつかの経済的な問題についてアドバイスを求めたていた。ランダウアーはゴルトマンと見解を共有し、ミュンヒェンでの会合への出席を約束し、他方、ベルリンでの会議への出席については、ミュンヒェンでの会合の結果次第であると解答していた(注156)。しかしながら、その後の政治的な変動とランダウアーの死によって、会合も議論も永久に不可能になった。

 ランダウアーがキブツ運動についていかなる見解を持っていたのか、という点に関しては様々な憶測はあるが、1920年代と30年代におけるユダヤ人の社会主義者による様々なグループに彼の思想が極めて強い影響を与えたのは明らかである。彼の著作のかなりの数がイディッシュやヘブライ語に翻訳された。ユダヤ人労働組合全般連合はグスタフ・ランダウアーを追悼する書物を1939年に刊行している(注157)。

 もちろん、ランダウアーの初期のキブツ運動に対する影響は明瞭である。オーストリアの著述家で心理学者、長きにわたり共産党員だったマネス・シュペルバーは、次のように説得力のある証言をしている。

「ランダウアーの殺害と死は恐ろしいものであった。だが、私のような自由なユダヤ人の青年運動のメンバーにとっては、ランダウアーは依然として生き生きとしていた。私たちは、彼が私たちの間で生きている、と感じていたが、それはとくに、遠く離れた古代の土地が、数年後には、自分たちの土地になるという計画について議論したときは、いつもそうであった。私たちは、そういった入植共同体をKwuzahと読んでいたが、その後キブツとして知られるようになった。キブツは、私たち、そしてランダウアーの夢を実現するものであった。そしてキブツは現在でも存続している。今日、キブツは、私的所有も社会的なヒエラルキーもない自由な個人である第3世代、および第4世代が住み続けている場所である。キブツは社会主義を現実のものとした。挫折した多くの革命を生き残った比較的わずかな事例である。キブツを訪問するとき、私はいつもランダウアーのことを考える。そのとき、私は殺害者による拷問を受けた犠牲者の顔を思い出すのではなく、彼の真実の顔を思い出す。それは、預言者の顔である。ランダウアーの生と死とは、私たちの存在を正しいものであると証明する、そういう性質のものだったのだ」(注158)。

 シュペルバーによるこの記述は、極めてロマンティックなものである。他方、ランダウアーが設立した社会主義者連合に20代で加わったアウグスティン・ズーシーは、ランダウアーの遺産がキブツにみられるという点について、1951年にイスラエルを訪問した際の体験のなかで、以下のように述べている。

「そこには500名の移民によるグループがいた。彼らは、ドイツでヒトラーが権力を握る一年前にドイツからパレスチナに来ていた。ユダヤ人国民基金は彼らに500ヘクタールの土地を与えた。・・・彼らの中に、かつての私の同志たちがいたことに驚いた。共同体の主導者の一人、ハノーファーから来たシャベール・ブーフアスターたちは、彼と彼の友人たちは、グスタフ・ランダウアーの社会主義から影響を受けたと語った」(注159)。

 ルート・リンク=ザーリンガーは、ランダウアーの影響がユダヤ人のラディカルな人々の間にみられが、それはノーム・チョムスキーにさえみられると主張している。チョムスキーはシオニズム学生運動アヴカAvukahを通じて影響を受けたのだという。チョムスキーはアヴカのメンバーだった人びととともに、大学入学後の数年、交流があったからであるという(公式にはこのグループはすでに解散していた時期ではあったが)(注160)。この話はあまりに推測だけに基づいているとはいえ、ランダウアーはユダヤ人社会主義とアナーキストの歴史に強い影響を残したのは事実である。たとえばポール・アヴリッチは、テル・アヴィヴのあるアナーキストのグループが、グループ名にランダウアーの名前をつけたのが、1970年代以降であったと述べている。

 ランダウアーの知的な影響は遠く韓国にまで及んでいると示唆している研究者もいる(注162)。こういった見解を裏付ける証拠は存在しない。しかしながら、ランダウアーは南アメリカに影響を残している。とくにスペイン・アルゼンチンのアナーキストであるディエゴ・アバド・デ・サンティリアンである。彼はベルリンに1922念から26年までのあいだに住み、FAUDの関係者と交流していた。彼はランダウアーの論説「民衆の決断を通じて戦争を廃止する」、そして1920年には『社会主義への呼びかけ』をスペイン語に翻訳した。1929年から32年までのあいだ、マックス・ネットラウはブエノス・アイレスで刊行されている『ラ・プロテスタ』紙上、バルセロナで刊行された『白色評論 La Revista Blanca』でランダウアーに関する記事を発表していった。その中でも最も重要な記事は、『ラ・プロテスタ』に1929年7月31日に掲載された「手紙でみるグスタフ・ランダウアーの生涯」である。この記事はランダウアーに捧げられていた。1933年にはヘルムート・リューディガーが『白色評論』にランダウアーに関する評論を発表している。

 1934年、サンティリヤンは、スウェーデン語で書かれたランダウアーに関する書物をスペイン語に翻訳している。反軍国主義者のアウグスティン・ズーシーは、第一次世界大戦中にスウェーデンに亡命し、スウェーデン語で『ランダウアー 革命の哲学』という著書を1920年に刊行している。1931年にオランダでは、ヘリエッテ・ローランド=ホルストによって『グスタフ・ランダウアー その生涯と著作』という書物が刊行されている。

 その後もサンティリヤンは、数十年間にわたりランダウアーの著作を出し続けた。1947年に彼はランダウアーのシェイクスピアに関する講演録をスペイン語に翻訳して刊行し、1961年、『革命』のスペイン語版が、サンティリヤンの助力により、ついに刊行される。

 これ以外の言語によるランダウアーの翻訳は少ない。1973年代にはフランス語で『革命』が翻訳されている 。『社会主義者への呼びかけ』の英訳は1978年に刊行されている。これら70年代の翻訳は当時のランダウアーに対する関心の復活を反映している。定期刊行物でのランダウアーに関する記事の掲載は、これらよりも先行していた。イギリスで発行されていた『アナーキー Anarchy』1965年8月号に発表された記事は、フランスで刊行されいていた『リバータリアン・スタディーズ Recherches libertaires』1966年12月号に、その一部が翻訳されて掲載されている。これ以外にフランスの『リバタリアン・ワールドLe Monde libertaire』1967年1月号、スウェーデンの『労働者Arbetaren』1968年1月23-26日号にもランダウアーに関する記事が掲載されている。過去十年間では、Giannis Karapapasが2000年にランダウアーの評論集、2001年に『革命』のギリシャ語訳を刊行している。Charles Dagetは2008年ととくに09年に、フランス語の評論集を編集・翻訳して刊行している。英語では、2005年にランダウアーの評論を含む『ドイツのアナーキズムとそれ以外のエッセー』というパンフレットが刊行されている。ナフーム・ゴルトマンとランダウアーとの往復書簡集は、2009年に刊行された、ジェイムズ・ホローによる『生きている革命 アナーキズムとキブツ運動』が再掲されている。

 現在、ドイツ語以外の言語で書かれたアナーキストの著作に関するランダウアーの翻訳は、今日では、国際的なアナーキズム運動に対する彼の最も重要な貢献であるといわれているが、これは彼の著作自体のドイツ語以外への翻訳が少ない、ということを考えれば、幾分かは皮肉な状況である(注164)。

 ランダウアーは、しばしばヘートヴィヒ・ラッハマンと協力しながら、ガイ・アルトレド、ミヒャエル・バクーニン(注165)、バルザック、Allan L. Benson, エティエンヌ・デ・ラ・ボエシ、サミュエル・バトラー(注166)、ヴォルテリン・ド・クレア、マーガレット・フュラー、クロポトキン、ムルタトゥーリ(エヅムンド・ドゥーヴェ・デッカー)、ネットラウ、プルードン、エリゼ・ルクリュ、ジョン・リード、ルソー、タゴール、トルストイ、ホイットマン、オスカー・ワイルドといった著述家や思想家の翻訳を行っている。これに加えて、ランダウアーは、多くの国外の著者をドイツ語しか読めない読者に対して、国外の亡命ドイツ人に対しては、国外で発行されていた機関紙から委託された評論を発表することで、記事を紹介している。ランダウアーによってこのようにして紹介された人物としては、アレクサンドル・ベルクマン、フランシスコ・フェレル、ジャン・グラーヴ、エマ・ゴールドマン、アレクサンドル・ゲルツェン、エルルコ・マラテスタ、ヨハン・モスト、ドメラ・ニューエンハイス、ロベルト・ライツェル、ヴラディーミル・ソロヴィヨフなどがいる。

 ラッハマンとランダウアーの翻訳のいくつかはいまだに再刊されドイツでは一つの標準的なものとなっている。 たとえば、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』、『社会主義のもとでの人間の魂』、クロポトキンの『相互扶助論』、エティエンヌ・ドラ・ボエシの『自発的隷従について』、フランス革命時代の書簡、マイスター・エックハルトの現代ドイツ語訳などである。
  
  1961年に、野心的だがやや無味乾燥な、トーマス・エスパーによる『グスタフ・ランダウアーのアナーキズム』という学位論文が発表されたのち、英語圏では1970年代に3冊のランダウアー研究書が発表されている。1971年、チャールズ・マウラー『革命への呼びかけ グスタフ・ランダウアーの神秘的アナーキズム』が刊行され、ユージン・ラン『共同体の予言者 グスタフ・ランダウアーのロマンティックな社会主義』が1974年、ルート・リンク=ザーリンガーの『グスタフ・ランダウアー ユートピアの哲学』が1977年に刊行された。今日に至るまで、これらの書物が英語圏におけるランダウアー研究の基本文献でありつづけている。

 チャールズ・マウラーは、芸術、神秘主義、そしてランダウアーのフリッツ・マウトナーの著作について焦点を当てている。マウラーの著作は一面的であるが、同書は刺激を与えてくれるものであるし、情報も豊富である。

 ユージン・ランの研究は最も分厚く、全般的な概観を与えてくれる。もちろん「ロマン主義的社会主義」というレッテルは、適切であるとは言えない。

 リンク=ザーリンガーの著作は、文化的な背景に重きを置いており、人間性に関する分析があり、第4章は、歴史小説の中のグスタフ・ランダウアーを分析している。同書には、今日では時代遅れになったが、かなりくわしい文献目録がある。リンク=ザーリンガーは、ランダウアーの評論とドイツ国内での講演録の選集を刊行している(注167)。

 英語圏では、ランダウアーに関心を持つ人びとに向けられたいくつかの短い文章もこれまで出されてきている。推奨できるのは、ロンドンで刊行されていた雑誌『アナーキー』のバイエルン評議会共和国特集号(1965年8月)に掲載されたコーリン・ウォードによる評論である。この号には、「革命に関する思索」というタイトルで『革命』の一部の英訳が収録されてている。また、ラッセル・バーマンとティム・ルークが刊行した『革命への呼びかけ』の英訳『革命について』の序文も推奨できる。ポール・アヴリッチは、1988年に刊行した『アナーキストたちの肖像 Anarchist Portraits』の一つの章をランダウアーに捧げている。短くも美しい文章である(注169)。ランダウアーの生涯と著作に関する概観は、前述したジェイムズ・ホロー『生きている革命』にもある。最近では、ホローは2009年に刊行された『アナーキズムへの新しい視点New Perspectives on Anarchism』のなかに「反抗の再発明 フスタフ・ランダウアーの社会哲学における構築的活動」というエッセーを寄稿している。ヘブライ語によるランダウアーのオスカー・ワイルドの翻訳がオンライン・ジャーナルOscholarsで発表される予定である(注170)。

 最も広範な読者を獲得したアナーキズムの歴史に関する書物の中でも、ジョージ・ウドコック『アナーキズム』、ピーター・マーシャル『不可能を要求する あるアナーキズムの歴史』、そしてマックス・ネットラウ『アナーキズム小史』にはランダウアーに関する記述があり、ネットラウの記述だけが、事実関係に関する誤りがなく最も正確なものである(注171)。

注 工事中 

p.336 「選集Collected Works」より
  驚くべきことに、フスタフ・ランダウアーのドイツ語による著作選集はこれまで完結していない。1990年代にいくつか試みられたが、いずれも実現に至らなかった。8巻で計画された選集の第一巻は、1997年にアカデミック出版より刊行された(『詩人、異端者、アウトサイダー 文学、哲学、ユダヤ人に関する評論と講演』)。しかしそのあとの巻は刊行されなかった。
 2008年、AV出版から、ドイツのランダウアー研究者として最重要人物ジークベルト・ヴォルフの編集で、選集の刊行が開始された。最初の二巻『国際主義』『アナーキズム』は2008年と09年に刊行され、その後、2010年に『反政治』、2011年に『反軍国主義』、『戦争と革命』、 2011年に『哲学とユダヤ人』、2013年に『文学』が刊行予定である。これに書簡集が加わる予定である。すべての巻には詳細な文献目録が附される予定である。

1918年から1919年まで:革命とランダウアーの死 1918-1919: Revolution and Landauer’s Death


Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1918-1919: Revolution and Landauer’s Death: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.37-41.
Translated by Hikaru Tanaka

「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」
 「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」

G.クーン、S.ヴォルフ「1918年から1919年まで:革命とランダウアーの死」『グスタフ・ランダウアー 革命とそれ以外の著作』PM Press, 2011, 37-41頁

 ドイツが第一次世界大戦で破滅的な敗北を喫することが確実になると、国民は大混乱に陥った。1918年10月、11月11日に休戦条約が結ばれ、戦争が公式に終了する数週間前に、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍兵士たちが反抗を始め、1918年から19年まで続くドイツ革命を開始した(11月革命としても知られている)。兵士と労働者は国内のあらゆるところで蜂起し、11月9日には社会民主党が、大衆からの信頼を失わないための試みとして、しかし、指導者たちの意志に反して、ドイツ共和国成立を宣言する。これがドイツ帝国の終結をもたらす。しかしながら、ラディカルな人びとは組織的抵抗を続け、ブルジョワの議会主義ではなく、直接民主主義と自決という原則に依拠した社会主義共和国を要求した。すべての権力を評議会へというスローガンはどこでも叫ばれるようになった。社会民主党はすぐに反抗を弾圧するあらゆる手段を講じた。その中には義勇軍(フライコール)という反動的軍事力も含まれていた(注126)。この義勇軍は、あらゆる反抗による脅威を打破することに大いに役だった。粉砕されたのは、1919年1月に起きたベルリンのスパルタクス団の蜂起も含まれる。義勇兵たちはカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクというスパルタクス団の中でも最も著名な2人を虐殺した。月末には、2ヶ月前に評議会共和国樹立を宣言したブレーメンの評議会共和国も軍事力で粉砕された。

 バイエルンでは1918年11月7日に、後のドイツ独立社会民主党(USPD)の指導者となるクルト・アイスナーにより共和国の樹立が宣言された。USPDは戦争継続に反対して社会民主党から分裂したメンバーによって1917年4月に創設された政党であった。これがいわゆるバイエルン革命のはじまりである(注127)。

 アイスナーはグスタフ・ランダウアーの友人の一人であり、ランダウアーはミュンヒェン革命の支援のためにアイスナーから招聘された。11月14日付けの手紙でアイスナーはランダウアーに次のように書いている。「君に希望することは演説家として人びとの魂の変容を促進することだ」と(注128)。ランダウアーは、デュッセルドルフの劇場から演劇の指導者として招聘を受けたところであり、すでに劇場の雑誌『仮面Masken』(注129)の臨時編集者として働いてもいた。

 革命の展開についてランダウアーが興奮したのは当然のことである。革命は、彼にとって第一次世界大戦の恐怖のなかで唯一の希望であった。マルガレーテ・ズスマンへの1917年3月24日付けの手紙で彼は次のように書いている。「かつてドイツを通り過ぎてしまった革命が、今回はいくつかの場所で起きている。戦争は第一段階なのだろうか。外的な力が、これまでドイツ人だけではできなかったことをドイツ人にやらせているのではないだろうか」(注130)。

 ミュンヒェンでランダウアーは、革命の手段であり革命を防衛するためのいくつかの評議会のメンバーになった(注131)。彼は、すでに1909年にミュンヒェンに移住したミューザームと再会した(注132)。それ以外にも多くのアナーキストとラディカルな人びとが希望を持ってバイエルンに集まってきた。その中にはエルンスト・トラ-、オットー・ノイハウス、ジルヴィオ・ゲゼル、B.トラーヴェンとしてよく知られているレット・マルートなどがいた。

 独立社会民主党が共和国最初の選挙で敗北した1919年1月12日に革命の展開は大きな転換点を迎えた。数週間後の2月21日、アイスナーは、首相を辞任する手続をするために向かっていた途中で右派の学生に殺害された。ランダウアーは彼の葬儀でアイスナーを賞賛する言葉を述べている(注133)。

 アイスナーが死亡した後に、社会民主党の「多数派」が、新政府を保守派の支持のもとで組織した。ミュンヒェンにおける野党は激高し、1919年4月7日、独立社会民主党とアナーキストによってバイエルン評議会共和国樹立を宣言した。共産党はこの独立宣言の時期は適当ではないと考えていた。ミューザームによるバイエルン革命に関する私的報告『アイスナーからレヴィーネまで』によれば、このことが最初から評議会共和国に敗北の要因を作り出した(注135)。しかしこの宣言は明らかにランダウアーの主張に基づくものであり、共産党の分離があったにもかかわらず、発表されたものである(注136)。ミューザームによれば、ミュンヒェン革命労働者評議会の会合のあと、4月4日の夜、ミューザームとランダウアーは酒場に入って評議会共和国の宣言文の草案を起草したという(注137)。

 なぜランダウアーは単なる「政治的」革命に対してあれほど長い間懐疑的であったにもかかわらず、バイエルンにおいて評議会共和国を支持したのかは不明確なままである。最も可能性が高いのは、自律的な社会主義という自分の構想を広範な規模で実現できる機会がついに到来したと確信した、ということである。ランダウアーは文化・教育人民代議員として指名された。

 一週間後、4月13日、社会民主党政権はバイエルン北部のバンベルクに逃れ、ミュンヒェンに軍を派遣した。共産党赤軍が評議会共和国を防衛するために攻撃を撃退した。ミュンヒェンから反革命家たちが追い出される前に、彼らは夜の会合に出席していたミューザームを含む重要人物を逮捕した(注138)。逮捕された人びとはバイエルン北部に連行された。グスタフ・ランダウアーは危うく逮捕を逃れた。というのも彼はその会合を早めに退出したからである。このときには誰も知らなかったが、これが彼に死刑判決を下す理由となっていた(注139)。

 
1919年ミュンヘン市内のランダウアー(右から二人目)
共産主義者は評議会共和国を統制することになった(歴史家たちはこれを「第二次」バイエルン評議会共和国の開始としている)。ランダウアーは、この一週間、執務室で学校と劇場の遠大な改革の輪郭を描く作業を始めている(注141)。共産主義者の左派の人びとは彼の役割について疑いの目で見ていた。4月16日、彼は、最後の、発送されなかった娘宛の手紙の中で次のように書いている。「お父さんは、ここでは元気にやっています。でも自分が役に立たないように感じ始めています」(注142)。


 2週間後、社会民主党連邦政府はベルリンから軍隊を派遣した。この軍隊は右翼の義勇軍部隊とミュンヒェン郊外で合流した。彼らはともにベルリンのスパルタクスとブレーメンの評議会共和国に攻撃を仕掛けてきた軍隊である。赤軍による必死の抵抗もむなしく、バイエルン評議会共和国は5月1日に敗北した。その代表的なメンバーは、ランダウアーも含め拘禁された。

 ランダウアーは翌日兵士たちによって虐殺される。ルドルフ・ロッカーは、この出来事をいかのように記述している。

「ランダウアーは、第1評議会共和国にその優れて豊富な知識と能力を提供した。共和国が崩壊した後、彼は良き友人だったクルト・アイスナーの未亡人とともに住んでいた。彼が逮捕されたのは5月1日の午後、彼女の家であった。親しい友人たちは数日前に彼に対してにげるように強く求めた。その頃はまだ比較的簡単だったからである。しかしランダウアーはとどまることを決意した。他の囚人たちとともに彼はトラックに乗せられてシュタルンベルクの刑務所に送られた。一日後、そこから他の数名とともに、シュターデルハイムに移送された(注143)。その途中で、人間的な精神を失った兵士どもは、上官からの命令を受け、ランダウアーを身の毛もよだつようなやりかたで虐待した。そのような上官の人であるフォン・ガーゲルン男爵は(注144)、鞭でランダウアーの頭を殴りつけた。これが無防備な犠牲者を殺害するサインであった。ある目撃者が後に語ったところでは、ランダウアーは最後の力を振り絞って殺人者に叫んだという。「やってみろ。人間らしく」。彼は文字通りけり殺された。まだ虫の息であることがわかると、無慈悲な拷問者たちの一人が彼の頭に銃弾を放った。これがランダウアーという、ドイツにおける最大の思想家にして優れた人物の一人の、恐ろしい最後であった」(注145)。

 5月17日、ランダウアーの長女のシャルロッテがやっとミュンヒェンへの旅行を許可された。彼女のねばり強い活動で、ランダウアーの遺体(集団墓地の墓の中で腐敗していた)と没収された彼の原稿は家族に返却された。ランダウアーの遺体は荼毘に付された。遺骨は1923年まで地下納骨堂に安置されていた。その年、主にバイエルンのアナルコサンディカリストたちの努力の結果、ミュンヒェンのヴァルト墓地に墓石が建立された。5月1日、ランダウアーの遺骨はここに移し替えられた。1925年、ドイツ自由労働者連合の募金活動を通じて、ランダウアーの記念碑が墓石に付け加えられ建立された。しかし計画されていた祈念式典は警察によって禁止された。

 1933年、ナチスはランダウアーの墓を祈念碑も含めて破壊した。その遺骨はミュンヒェンのユダヤ人共同体に送られ、第二次世界大戦終結まで、新ユダヤ人墓地の壁に無名の状態で安置された。1946年、ランダウアーの娘グドゥラがランダウアーの墓の再建を主導した。この墓は今日、新ユダヤ人墓地でクルト・アイスナーの墓地と同じ場所にある。墓石は1925年の記念碑の残部を利用したものである。
ランダウアーとアイスナーの墓


注 工事中


「1870~1892年 出生から青年期まで」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」
 「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」

「ランダウアーの死」Ernst Toller, Ein Jugend in Deutschland, Rowolt, 1978, p.142より

「ランダウアーだ、ランダウアーだ」と怒鳴りながら、バイエルン兵とヴュルテンベルク兵からなる一隊がグスタフ・ランダウアーを連れてきました。尋問室の前の廊下で将校がランダウアーの顔を殴りつけました。
  その間、兵隊たちはどなっていました。「扇動家消え失せろ、殴り殺しちまえ」。ランダウアーは銃床でこづかれて、調理場の前を通って中庭まで歩かされました。
 彼は兵隊たちに言いました。「私は扇動家ではない。君たち自身は自分がどんなに扇動されているかわかっているのか」と。中庭でランダウアーと兵隊たちに出くわしたガーゲルン男爵は、棍棒でランダウアーを殴りつけたので、彼は崩れ落ち、倒れましたが、再び起きあがり、話し始めようとしました。
 軍曹が銃を撃ち、一弾が彼の頭に命中しました。まだ呼吸していました。すると軍曹は言いました。
ミュンヒェン市内Amalienstrase 52にある記念プレート
「下種野郎ほどしぶといものだ。まだ生きていやがる」。
 親衛連隊の軍曹が怒鳴りました。「やつの外套をはぎとれ」。

 外套が脱がされました。ランダウアーはまだ息がありました。
 連中が彼を腹ばいの格好にしました。「下がれ、もう一発くれてやる」とどなって、軍曹はランダウアーの背中を撃ちました。体がまだぴくぴく動いているところを、軍曹は足で踏みつけて息の根を止めました。それからランダウアーは着ているものを全部はぎ取られ、死体は洗濯場へ放り込まれました。