2016年5月20日金曜日

1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々 ‘1901-1908: Retreat and Reflection' of Gustav Landauer by G. Kuhn & S. Wolf

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1901-1908: Retreat and Reflection: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.26-30.
Translated by Hikaru Tanaka


「1892-1901:ランダウアーの初期のアナーキズム」へ 

1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々

 ルース・リンク・ザーリンガーは、1900年から1919年の時期を「ランダウアーの生涯における成熟期」と呼んでいる。成熟とはなにかという問題はここで問わないとしても、たしかに19世紀から20世紀に転換する時期に、ランダウアーは重要な転換を経験している。この時期に、彼はアナーキストと社会主義者という自らの考え方を放棄しなかったが、他方で、これらの考え方を新たな哲学に基づいて変えていった。階級に関する過度に単純化された分析、教条主義、政治的手段としての暴力を軽い気持ちで受け入れる人びとに対する繰り返し示される不満には、そういった彼の思考の新たな傾向を見て取れる。第2に、この時期にランダウアーは、社会の変化が個人の「内的」な変容なしには達成できない、と確信するようになったということがわかる。

 彼の周囲のアナーキストのほとんどは、彼のそういった見方を拒否していた。これが、次第にランダウアーの孤独感を強めていった。ルドルフ・ロッカーによる以下の記述は、当時のドイツのアナーキストたちの中でランダウアーがどのような位置にいたかを明らかにしている。

「グスタフ・ランダウアーは疑いもなく、ドイツにおけるあらゆるリバータリアンな社会主義者の中でも最大の思想家であった。ある意味では、それこそが、ランダウアーが生き活動したドイツにおけるあらゆる場所で彼を悩ましたことでもあった。当時のドイツにおけるアナーキストの大多数は彼をほとんど理解していなかった。多くの人びとは彼がいかに優れた人物であるかがわかっていなかった。ランダウアーは、彼に最も親密であったはずの人々の間でさえ孤立していたのである」(注40)。

 国際的にもランダウアーは、ルドルフ・デ・ヨングの言葉で表現すれば「アナーキストたちの世界での孤立」をしばしば味わっていた(注41)。1890年代にランダウアーは何度か国際的な社会主義者の会議に出席するために旅行をしているが、1901年以降は、国際的で大規模なアナーキストの会合を避けるようになった。彼は1900年にパリで開催された国際革命的労働者会議(後に国際反議会会議として知られる)にも1907年にアムステルダムで開催された国際アナーキスト会議にも出席していない。1910年になっても、その頃までにはドイツにおいて彼の活動は再開されていたが、それにもかかわらずランダウアーは、「すべての国におけるアナーキズム運動は極めて愚鈍だ」と述べている(注42)。

 ランダウアーの隠棲と、自省を求める態度は「個人主義」への転換であるという理解があるのなら、それは誤解である。むしろ、「神秘主義的アナーキズム」(注43)への転換という表現がより適切であろう。ランダウアーが「内的存在」の探求において発見しようとした個人というものは、個人主義の要素ではなく、すべてを結びつける精神であった。ランダウアーにとってこれは共同生活の基盤であった。こういった確信は、友人のフリッツ・マウトナーの懐疑的哲学に起源を持ち、同時に、中世のキリスト教神秘主義、そのなかでもっとも重要だった、マイスター・エックハルトの説教と聖典に起源を持つものであった。このことは1903年に発表されたランダウアーの著書『懐疑と神秘Skepsis und Mystik』で最も明確であるが、その後のランダウアーによるすべての著作をみれば、それらを特徴付けているのが神秘主義的な要素であることがわかるのである。『神秘主義とアナーキー マイスター・エックハルトとグスタフランダウアーの思想におけるその意味』という優れた研究の著者トルステン・ヒンツは、ランダウアーの神秘主義を「制度のない宗教」(注45)と呼んでいる。

 1900年、ランダウアーは「離脱を通じて共同体へ」というタイトルの講演の中で、濃密な表現方法により、彼の新しい思考の方向性を明確に示した。ランダウアーがこの講演を行ったのは、同年6月18日に新たに創設された「新しい共同体 Neue Gemeinschaft」という組織の会合においてであった。この講演は1901年に「新しい共同体」が刊行した雑誌『達成のための王国 Das Reich der Erfu"llung』の第2号に収録されているが、本書にも収録されている(注46)。この論説を読むと、政治的行動と社会的変容に関してランダウアーの理解が世紀転換の時期に変化したことがわかる。トルステン・ヒンツが呼ぶところの最も明瞭なのは「多層的な人生の危機・・・哲学的で・・・・政治的で・・・個人的な」というものである(注47)。2年後、このテキストはほとんどすべて『懐疑と神秘』に収録された。

 「新しい共同体」という組織は、ハインリヒ・ハルトとユリウス・ハルトの兄弟によって率いられた哲学的にはあいまいで政治的には不明確なグループだった。ハルト兄弟は自然の法則と精神が調和した、新たな共同体の創造の手段として、農村に居住地を設立することを提唱していた。この考えはランダウアーに訴えかけるものがあった。ハンガリー系オーストリア人で経済学者テオドール・ヘルツかが、1890年に刊行した『自由地 ある一つの社会的な未来像』という書物から、ランダウアーは深い感銘を受けていたからである。同書でヘルツカは、アフリカにおける理想主義的な社会主義者の居住地に関する計画の概観を描いている。ヘルツカの『自由地』は、ドイツ語圏の社会主義者の間で極めてよく読まれ、1890年代には「自由地」設立を目指す様々なグループが設立されていた(注48)。その後ランダウアーが描く社会主義理論においても社会主義者による居住地のイメージは中心的なものとなっている。

 ランダウアーは、ハルト兄弟および「新しい共同体」の他のメンバーについて、すでにフリードリヒスハーゲンの詩人グループに関わっていた時から知っていた。ベルリン郊外の南西にあるシュラハテンゼーに設立された共同体に、ランダウアーは加わらなかったとはいえ、グループには、楽観的な気持ちで加入した。しかし彼は1年後には「新しい共同体」を脱退している。それはハルト兄弟の思想的な内実を信用することができず、社会的変容と誤って彼らが理解していた逃避主義に幻滅したからである。ランダウアーはドイツのアナーキズム運動に対して批判的であったが、彼は「新しい共同体」が主催する放埒で自堕落なイベントに対して、具体的で政治的な干渉をせざるをえなかった(注49)。

 ランダウアーがこのグループに加わっていた時期は短かったが、このグループには彼の生涯において決定的な人物が含まれていた。まず、ランダウアーはこのグループでマルティン・ブーバーと出会った。ブーバーは著名なユダヤ系オーストリア人の哲学者であり、ランダウアーの生涯の友人であり支援者となった。ここでであったもう一人の重要な人物は、若く情熱的でラディカルな、ボヘミアンな生活への奇妙な情熱をもつアナルコ共産主義者エーリヒ・ミューザームであった。ランダウアーとミューザームは、自分たちがともに「新たな共同体」とそりが合わないと感じ、同じ信念を共有する人物にであった、と感じた。そこで彼らはすぐにグループを去った。「新たな共同体」は1904年に解散した。

 ランダウアーとミューザームが、ドイツ20世紀史における最も影響のあるアナーキストであることは疑いの余地はない。これにルドルフ・ロッカーを加えることができるかもしれないが、彼はその人生の多くをドイツ国外で過ごしている。2人のうちで年下で政治的経験が少ないミューザームは、年配で経験のあるランダウアーを尊敬した。彼らの長期的でダイナミックな関係性は、教師と生徒との関係に似通っていた(注51)。しかしながらミューザームは、独自の思想を持っていたため、相手に対する影響という点においてもすぐにランダウアーと対等になった(注52)。

  ミューザームは、共産党という政党による共産主義運動を支持していたのに対して、ランダウアーがそのような考え方を決して共有しなかった(注53)。これら両者の大きな違いの第一点目である。第二点目として、性格の相違が挙げられる。ランダウアーはしばしば哲学者で聖人として見なされるようなところがあったが、ミューザームは向こう見ずなところで悪名が高く、感情的になりやすい性格だった。そして、両者の最も大きな違いは、個人的な倫理観と生活様式にあった。ランダウアーは「保守的革命家」(注54)と呼ばれるように、他者に対する評価についてはあまりに厳しく、しかも決してほのめかすというレベルのものではなく、ベルリンのボヘミアンたちと交友関係を結んでいたのは20歳の時に短い期間だけであった。これに対してミューザームは、反ブルジョワ的な思考を持つ人物の典型であり、「浮浪者」「どろぼう」「ルンペンプロレタリア」、そして彼の評論のタイトルになっている「第五階級」の革命的潜在能力を強調するリバタリアン的アナーキズムを扇動する人物だった(注55)ミューザームが自由恋愛あるいは同性愛者の権利についての議論において熱心に語るのに対して、ランダウアーはそういった問題については注意深く、むしろ、社会主義社会を建設する上で基礎となる共同体のひな形として、結婚と家族が重要であると考えていた。ランダウアーは高尚な芸術に強く関心を持ち続け、少なからぬ評者から、ランダウアーの芸術観が「完全に伝統的な芸術の概念」(注57)であるとされている。これに対してミューザームは多くの進歩的な「民衆」の詩人であり脚本家だった。それにもかかわらず、ランダウアーの著作における「美の優先(政治よりも)」(注58)があるという示唆を拒絶したのは、他ならぬミューザームその人であった。彼は倦むことなくランダウアーの「強く、恐れを知らない精神、常に行動するための準備」(注59)、そしてランダウアーの性格を「ブルジョワの倫理による万人と万物への愛という甘ったるい話に解消」(注60)してしまうことに反対した。ランダウアーの死後に発表した追悼文で、ミューザームは、「ランダウアーはブルジョワではなかったということは明確にいうことはできず、むしろ、彼は社会変革を文化変容の必要条件として常に考えていた革新者であった」(注61)と述べている。

 1901年から06年までランダウアーはラディカルな運動のシーンから姿を消す。1901年から02年まで、彼と新しい恋人ヘートヴィート・ラッハマンはイギリスに住み、数ヶ月はブロムリーに居を構えるクロポトキンのすぐそばで生活していた。ランダウアーは時々クロポトキンを訪問し、彼から強い印象を受けた。ランダウアーはクロポトキンのいくつかの最も重要な著作を翻訳し始め、『相互扶助論 進歩の要因』『田園 工場 仕事場』『フランス大革命 1789-93』のドイツ語訳を刊行することになる。またランダウアーは、当時イギリスに住んでいた、キューバ生まれのカタロニア人アナーキストであるタリダ・デ・マルモル、ルドルフ・ロッカー、マックス・ネットラウとも交流した。

 ベルリンに戻るとランダウアーは翻訳に専念し続けた。クロポトキンの他に、オスカー・ワイルド、ホイットマン、そして、最初のアジア人として1913年にノーベル文学賞を受賞したラビンドラナ・タゴールの作品をドイツ語訳した。ランダウアーは自分自身のテキストも翻訳し、それ以外のテキストもラッハマンと共同で翻訳した。さらに文学に関する評論集を刊行し、1903年に『懐疑と神秘』を出版した。

 ランダウアーがこの時期に政治的活動に戻ったときに彼が最も密接に関わったのはドイツ田園都市協会である。この組織はイギリスの田園都市運動から刺激を受けた人びとによって設立され、社会的な視点から都市計画を検討する組織だった。ランダウアーが田園都市協会に関わったのは、それほど長い間ではなかったが、フリードリヒスハーゲンの詩人サークルの時に友人だったパウルとベルンハルトのカンプフマイヤーの兄弟と旧交を温めた。田園都市協会は1910年代に解散した。

 1904年から06年まで、生活のためにランダウアーはベルリンのある書店で働いた。1906年7月、彼はもう一つの人生の転機になる手紙を受け取った。この手紙は、フランクフルト・アム・マインの出版社リュッテンとレーニングが刊行する魅力的な出版シリーズ「社会Die Gesellschaft」の編者に選出されたマルティン・ブーバーからものもだった。このシリーズの目的は、社会生活におけるすべての側面について創造的な視野を提示することにあった。ランダウアー宛の手紙の中でブーバーは、率直に次のように述べている。「親愛なるランダウアーへ 「社会」の刊行については、次のような状況です。出版社は「革命」という高度な需要があり興味が持たれているテーマに関する本を刊行したいと思っています。どのように考えても、あなた以外に適任の人物はいないと思っています」(注63)。1年後、ランダウアーの著書『革命 Revolution』が「社会」シリーズの第13巻として刊行された(ブーバーはこのシリーズで40巻の刊行に携わった。最終巻は1912年に刊行された)。

グスタフ・ランダウアー『革命』1907年
 『革命』はそう簡単に理解できる本ではない。ルース・リンク=ザーリンガーは同書を「拙速に執筆され」「文章構成がよくない」(注65)と評している。これに反論することは難しい。同書の中での「革命」という言葉の使い方は一貫していない。これが多くの読者を混乱させてきた。一般的に、ランダウアーは「革命」を社会主義のための永続的な歴史的闘争という意味で用いていて、革命は、精神、個性、共同体の革新と結びついている(ランダウアーの神秘主義ではこれらはすべてが一体のものである)。このような哲学的な革命の解釈は、同書における重要な点である。ただし、ランダウアーはそれと同時に、革命という言葉をより一般的な意味でも用いており、個人が実行し、あるいは試みた、ラディカルな社会変容を「革命」と呼んでいる。通常は文脈がその意味を明らかにするとはいえ、語義の相違をより明確にすれば、読者はもっと容易に読むことができたかもしれない。

 『革命』で最も厳しく批判されたのは、おそらくランダウアーの中世についての概念であろう。これはピョートル・クロポトキンからの強い影響によるものである。ランダウアーの支持者たちでさえ中世を理想化しすぎている、と論評している(注66)。ランダウアーによる歴史的な紛争に関する解釈にも問題がある。ラディカルなカトリック教徒の反抗が17世紀における温和なフランス王に対する「人民の蜂起」として描かれているのがその一例である(注67)。

 しかしながら、それでもなお、『革命』はアナーキストによる歴史と革命に関する最も重要な分析の一つであることに変わりはないのであり、極めて特徴のある研究の一つであることも間違いない。ジークベルト・ヴォルフは、「歴史に関する画期的なアナーキスト哲学」であると評価している(注68)。ルドルフ・ロッカーにとっては「光彩を放つ」「予言者の警告」である(注69)。エーリヒ・ミューザームは、同書を次のように描いている。一方で『革命』は、革命の問題を科学的に分析するランダウアーの能力を証明すると同時に、抽象、科学、批判的分析を、最も重要であることを強調するための手段としてランダウアーが見なしていた、ということを証明している。すなわち扇動を準備し、人びとに行動を起こすように呼びかけるためのものと考えていた、ということである、と(注70)。『革命』では、ランダウアーの想定するユートピア、すなわち、彼の思想の中で最もよく知られた点の一つが、もっともまとまったかたちで要約されている(注71)。ランダウアーはユートピアをあらゆる革命的行動の原動力であると考えていた。しかしながら、ランダウアーにとって革命は「永続的な行動」(注72)である。そしてランダウアーによればユートピアとは、われわれが永遠に追い求める遙か彼方の夢ではない。むしろ、真の社会主義とは、我々の日常生活の中でうごめき続けている力なのである。

注 工事中
「1892-1901:ランダウアーの初期のアナーキズム」へ

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