2016年5月18日水曜日

どうすれば国家を破壊できるのか? グスタフ・ランダウアー「弱々しい政治家たち。それよりももっと弱い民衆!」(1910年)より How can we destroy the state? from Japanese Translation of Gustav Landauer, "Schwache Staatsmänner, schwächeres Volk!", 1910.

グスタフ・ランダウアー「弱々しい政治家たち。それよりももっと弱い民衆!」『社会主義者Der Sozialist』(1910年6月)より(詳細は、田中ひかる「グスタフ・ランダウアーの描く国家と権力、そして「革命」の描き方」『アナキズム』第13号、2010年、123-134頁を参照)。

Gustav Landauer, “Schwache Staatsmänner, schwächeres Volk!”, in: Beginnen: Aufsätze über Sozialismus, ed. Martin Buber, Köln: Marcan-Block-Verlag, 1924, pp.51-53. First Published on 1910 June of Der Sozialist) Translated by Hikaru Tanaka  

English Translation: Gustav Landauer, "Weak Statesmen, Weaker People!, in: "Revolution and other Writings, Edited and translated by Gabriel Kuhn, PM Press, 2010, pp.213-214. 

 一人の男が仕事机に向かい、黙々と楽譜を書いている。顔色は悪く、神経質そうだ。とても病弱かつひ弱な感じがする。彼は交響曲を作曲しているところである。男は、この作曲に懸命に取り組み、これまで自分が学んできたあらゆる技法をこの交響曲で表現しようとしていた。やがてこの曲の初演を迎えることになる。オーケストラは150名の大編成だった。第3楽章になるとティンパニ110台、金床15台、そしてオルガン1台が加わる。最終楽章には、500人のコーラス隊が歌う八重唱、そして、笛と太鼓によるオーケストラがさらに加わる。聴衆はこの交響曲の大音響に魅了され、迫力に圧倒された。

 ここで描いたような今風の作曲家に見られる特質、すなわち、力強さも人間的な魅力も一切感じられないのに、膨大なパワーを意のままに操ることができる、そういう特質は、現代の政治家、そして現代の支配階級全てに属するあらゆる人々のことを想起させる。彼らは、人間としては軟弱かつ無力であり、何かを創り出す力もなく、やることといえば詐欺まがいのことばかりである。だが、そういう支配階級の背後には、彼らの命令には何でも従う巨大なオーケストラが控えている。武装する国民、すなわち軍隊である。

 政府は様々な政党から非難を浴びせかけられ、ブルジョワと労働者からは誹謗中傷されるが、反撃の握り拳を背中に隠しつつ、そういった非難の言葉をまともにうけとらない。政府を非難する人びとが自分にとって危険であるなどとも考えていない。

 国民の中で最も過激であるはずの20歳から25歳までの成年男子が、無能な政府の背後で隊列を作り、いかなる命令でも、何ら疑問を持つことなく従順に実行する準備ができているからである。そういうわけで、国の内外を問わず、およそ政府というものは、自分がやっている政治が恥さらしなものだなどとは思わない。

  これに対して私たち社会主義者は、これまでの社会主義が100年以上にわたってそうであったように、特権階級が虚偽で人々を攪乱して維持する支配というもの、すなわち政治というものに対して立ち向かってきた。


  なぜなら、人びとが自由と偉大なる調和を獲得する、という事態が今後生まれ得る、ということを確信させるような力強い潮流が歴史の中に見て取れるからだ。私たち社会主義者は、人びとの精神を覚醒し、様々な現実的なものを建設することによってこのような潮流を支えていきたい、と考える。だから、およそ国政というものには一切関わろうとはしないのである。

  これまで私たちは、空疎なイデオロギーと暴力的な政治を実行する諸権力がいまだ相当に力を持っている、ということ、また、政治家の中には、強い個性を持ち、目標と活力をいまだ失っていない人々がいる、ということを認めざるを得ないのではないだろうか、と考えることもあった。そして、私たちが敵対するそういった人々に、わずかながらも敬意を払うべきではないのか、そして、彼ら支配者たちの権力はまだこれからも長期にわたって存続するのではないか、と考えることもあった。

 ところが私たちは、ドイツでもそれ以外の各国に関しても、次第に次のようなことに気づくようになっている。


  国家の力というものは、国家を代表する政治家の精神と生身の肉体に宿っているのではない。国家の力というものは、最も不満を抱く、プロレタリア化した大衆、人びとの中にあるのだ、と。ところが、彼らは、国家から分裂して新しい何ものかを、国家に代えて打ち立てる、ということが自らの任務であることを理解していない。

  一方に国家権力と無力にされてバラバラにされた大衆がいるのなら、これに対抗する、社会主義に基づく組織がなければならない。数々の社会がつながりあって創り出す社会、数々の連合が形作る連合、すなわち人民が形作る社会がなければならない。現実の中で創り出すべき対立とは、これである。

 国家権力、政府の正統性、これらを代表する人間の特性が弱まっていけば、そして人びとが、国家から分離して何ものかを形作れば、旧来の体制は破滅することになる。

 しかし人びとは、国家には果たすべき役割があり、国家がいまだ必要だ、と言われてしまうと、そのことが否定できない。それは、国家に置きかえられるべき社会主義的現実がいまだ存在しないからである。だが、人びとは、この点を理解していない。

 机は転倒させることができる。窓ガラスは割ることができる。国家もそういった何か実体のあるモノであるかのように、あるいは呪術で用いられる物神(Fetisch)であるかのように語り、「国家を破壊することができる」などと主張する人々がいる。

 だが、彼らはそう言って見栄を張っているか、言葉を実体と取り違えて言葉そのものを崇拝しているだけなのだ。
 国家とは、人と人との間にある関係であり、人と人との間にある行動や振る舞いのあり方である。人びとが、今とは異なる関係を取り結び、今とは異なる行動や態度を取ることによって、国家を破壊できるのである。

「朕は国家なり」と絶対君主が言うのなら、絶対的な国家に自らすすんでとらわれの身になっている私たちもそれにならって、「私たち自身が国家なのだ」という真実を認識しなければならない。人間にとって真の共同体と社会を創り出さない限り、国家とは私たち自身であり続けるのである。

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