2016年5月20日金曜日

1914年から1918年まで: 第一次世界大戦中のランダウアー 1914-1918: War by G. Kuhn, S. Wolf

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1914-1918: War: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.36-37.
Translated by Hikaru Tanaka

「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」
「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」

1914年から1918年まで: 第一次世界大戦中のランダウアー

 社会主義連合設立と『社会主義者』紙を再刊した当初の高揚感のあと、すぐに軍事紛争の危険性がますます高まっていくと、運動には戦争の長く暗い影が覆い被さるようになった。戦争の阻止がランダウアーの主要な活動となった(注115)。1911年9月初旬、ベルリンにおいてランダウアーは訪れつつある漠然とした恐怖について警告している。ドイツ労働者に対しては、戦争が不可能になるように「積極的なゼネスト」を採用するように呼びかけている。この講演は「自由な労働日について」というタイトルで刊行され、英訳は本書に「自由な労働者評議会」というタイトルで収録されている。

 平和主義者としてのランダウアーの遺産については議論が分かれている(注116)。しかし、ヘートヴィヒ・ラッハマンとともに彼は当初から戦争に反対していた数少ないドイツ人だった。多くの左翼とアナーキストたちでさえ戦争を、いかに難解な革命概念を彼らが抱いていたかに関わりなく、自分たちの政治的な評価や支持を獲得するための機会として歓迎した。ランダウアーもラッハマンもこれには驚かされた。あいまいなナショナリズムを主張する者さえいた。社会民主党はほとんど完全に戦争支持で一致団結していた。その中には「ラディカル」な派閥さえ含まれていた。その後スパルタクス団を結成して1919年にスパルタクス団による蜂起を実行したカール・リープクネヒトは、著名人の中での例外であった。ジークベルト・ヴォルフは、1914年に戦争が勃発したときに、「ヘートヴィート・ラッハマンとグスタフ・ランダウアーは、自分たちの反軍国主義的な立場を友人や知人に対して理解してもらうことがほとんど不可能な状態であった」(注117)。ランダウアーにとって、戦争を仕掛けているのは常にドイツである(注118)。1913年、彼は『社会主義者』紙に掲載された評論を、「ドイツ人は恥を知るべきだ」という印象深い言葉で締めくくっている(注119)。

 ランダウアーは失望と孤独のなかにいた。しかしこれによって彼は、反軍国主義のアジテーションを終わらせることはなく、倦むことなく活動を続けた。この時期に刊行された反戦と反ナショナリズムに関して発表された文章は、向こう見ずな野蛮と虐殺に対する緊急の警告であり、人類の分断ではない、団結への情熱的な訴えであった(注129)。

 1913年、戦争勃発の危険性がますます高まったときに、社会主義者連合は解散した。あらゆる危険性に抵抗しながら、新聞の植字工であるマックス・ミュラーが徴兵に取られた1915年までランダウアーは『社会主義者』を継続した。『社会主義者』の最後の号は3月15日刊行されている。ランダウアー自身は1915年5月に徴兵検査があったが、不適格とされた。

 ランダウアーは戦争の間ずっと反軍国主義者の友人たちとコンタクトをとり続けた。1914年彼はベルリンのフォルテ・クライスにおいて活動するようになった(組織の名前は、会議をする予定していたトスカナ州にあるフォルテ・デイ・マルミという町の名前から取られている)。彼らはマルティン・ブーバーを含むヨーロッパの知識人による小グループであり国境を超えた相互理解を目指す運動を展開していた。しかしながら、戦争開始時に数名のメンバーが愛国主義的な感情を吐露すると、ランダウアーはすぐに組織から脱退した。フォルテ・クライスはそのあとすぐに解散した(注121)。

 1915年、ランダウアーは平和主義を支持するドイツ人芸術家たちと文筆家たちとスイスで会っている。このときスイスには、フーゴー・バル、エミー・ヘニングス、リヒャルト、ヒュルゼンベック、そしてそれ以外にも著名なダダイストや表現主義的平和主義者が移り住み、あるいは、亡命していたからである。自分と同じ考えを持ったこれらの人びととともにいることはランダウアーにとって慰めになった。ベルリンに戻ると彼は「出発Aufbruch」という若いユダヤ人学生エルンスト・ヨエル(注122)を中心とするサークルに加わる。そして定期刊行物『出発』にいくつかの評論文を寄稿した。ランダウアーは「新しい祖国連合」という組織でも活動した。「新しい祖国連合」は、ドイツにおいて最も影響力のある平和主義者の組織であり、初期のメンバーには、アルベルト・アインシュタイン(注123)、クルト・アイスナーがいた。その数年後、アイスナーはランダウアーに対して、ミュンヒェンに来るように要請することになる(注124)。その間、『社会主義への呼びかけ』は発禁処分を受ける。

 1916年、ラッハマンとランダウアーは、もう一つの平和主義組織である国際法センター(Zentralstell Vo"lkerrecht)の設立運動に加わる(注125)。ランダウアーはこの組織のベルリン支部の議長となる。1917年、ランダウアーとラッハマンはラッハマンの家族の住むクルムバッハに転居することを決意する。クルムバッハはバイエルンのシュヴァーベン地方に位置する小都市である。

 1918年2月、戦争がいまだ継続しているときに、ヘルトヴィート・ラッハマンは肺炎によって死亡する。誰も予期しなかった死だった。ランダウアーが悲しみから立ち直るために数ヶ月を要した。彼はヘルトヴィート・ラッハマンはどのようにして死を迎えたのか』というパンフレットを刊行した。この冊子は、幾人かの友人にだけ送られている。


注 工事中
「1908年から1914年 社会主義へのランダウアーの希望」
「1901年から1908年 ランダウアーの隠棲と自省の日々」
「1892-1901 ランダウアーの初期のアナーキズム」

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