2016年5月25日水曜日

1870~1892年 ランダウアーの出生から青年期まで(G.クーン、S.ヴォルフ) 1870-1892 Childhood and Youth of Gustav Landauer

1870~1892年 ランダウアーの出生から青年期までG.クーン、S.ヴォルフ

Gabriel Kuhn, Siegbert Wolf, ‘1870-1892: Childhoood and Youth: ‘Introduction’, in: Gustav Landauer, Revolution and Other Writings, pp.18-21.
Translated by Hikaru Tanaka

 グスタフ・ランダウアーは1807年4月7日、南ドイツの都市カールスルーエで、世俗的なユダヤ人の家庭で生まれた。父親のヘルマンと母親のローザは、靴屋を経営していた。グスタフには兄がふたりいた。1866年生まれのフリードリヒと1867年生まれのフェリックスである。1868年にはいとこのフーゴーが生まれる。彼はその後リベラルな考え方を持つ企業家として成功し、しばしばグスタフを支援した。フーゴーはグスタフが死去するまでずっと親密な関係を維持した。

Gustav Landauer 1892
成人してからのランダウアーは、家族とは疎遠だった。父親は1900年に、フリードリヒは1901年に死去している。フェリックスは両親の靴屋を継いだ。グスタフは兄たちについて言及することはまれであった。だが、年に一度、夏には母親を訪問しようとしていた。母ローザは1932年、フェリックスは1939年にこの世を去っている。

 ランダウアーの青年時代についてはわかっていることは少ない。父親が設定した職業選択に対して抵抗したようであるが、そういった表だった反抗に関する報告はどこにも見当たらない。「25年前 ヴィルヘルム二世の記念日に寄せて」というエッセーでランダウアーは、フラストレーションを抱えていた高校時代について次のように述べている。「青年時代は一人っきりで」、「劇場、音楽、特に本」に逃避して、たくさんの時間を過ごした、と。

 1888年から1892年まで、ランダウアーは、ドイツ文学とイギリス文学、哲学、美術史を、ハイデルベルク、ストラスブール、そしてベルリンの各大学で学んだ。何度かの中断を除けば、ベルリンは彼が1917年まで住み続けていた場所であった。大学時代に知り合った人物として最も重要なのは、チェコ系オーストリア人の文筆家で言語哲学者のフリッツ・マウトナーだった。彼はランダウアーの知的発展において重要な影響を与えた。
Fritz Mauthner 1849-1923

 ランダウアーが生まれたのは、近代ドイツ国民国家の誕生とほぼ同時だった。1870年から71年までの普仏戦争後、プロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはドイツ諸領邦国家と大公国を皇帝ヴィルヘルム一世のもとで統一させることに成功した。この事実は重要である。ランダウアーは、いわば新生ドイツ帝国によって産み落とされた子どもだったのである。なぜなら、彼の思想において中心的なテーマは、国家、国民、民衆であり、これらはいずれも、一般的な意味でも特別な意味でも、ドイツ人のアイデンティティに関わていたからである(注2)。ランダウアーはしばしば国家構造の欺瞞生と、国民および民衆の可能性を区別していた。こういった点に注目して、極めて少数ではあるが、彼に関して英語で論評した人びとの中には、彼の思想が「フェルキッシュ運動」と関わっているということをほのめかす者もいるが、こういった指摘は不適切である。

 「フォルクVolk」という名詞と、そこから派生する「フェルキッシュ」という形容詞は、ドイツ語では「民衆」という意味と同義である。19世紀において、民衆は政治的な意味合いを持たされるようになり、一方ではこれは民族主義者によって用いられ(フォルクと外国の支配者の対立、という文脈で)、他方では社会主義者によっても用いられた(フォルクと貴族・王党派・資本家の対立という文脈で)。19世紀半ばにおいては、こういった多様な用法は矛盾しているとは思われなかった。1960年代と70年代における反植民地運動においてと同様に、ヨーロッパの19世紀のナショナリストと社会主義の闘争はしばしばかさなっていたのである。

 統一され強大になったドイツ国民国家という文脈においてのみ、「フォルク」の民族主義的な意味合いが次第に、外国人嫌悪と人種主義のイデオロギー、そして、反セム主義イデオロギーの中に取り込まれていった。この文脈において、フェルキッシュ運動は、「ゲルマン人であること」を理想視する、ほとんどがブルジョワによって占められる運動として登場した。したがって、ランダウアーの著書『社会主義への呼びかけ』(英訳タイトル『社会主義者の呼びかけ』)の英訳者であるバーマンとリュークがその序文で以下のように述べているのには驚かされる。「伝統的マルクス主義は・・・フェルキッシュ運動にある潜在的な左翼の力を獲得することに失敗した」と(注3)。以上の記述は不適切であると思われる。むしろ、論理的な帰結として、わずかな穏健な潮流を除けば、フェルキッシュ運動は、1930年代、ナチスによって吸収された、と考えられねばならない。

 しかし、この出来事は、のちにフォルクという考え方を社会主義者に導入させるような衝撃をもたらさなかった。今日では、ドイツにおけるフード・ノット・ボムズに類似した運動であるVolxKu"che、すなわち民衆キッチンという運動があるぐらいだ。ランダウアーが「民衆劇場Volksbu"hne」の運動に加わったということ、「民衆の自決Selbstbestimmung des Volkes」(注4)を主張し、バイエルン革命の時に「民衆代表Volksbeauftrager」(注5)として行動した、ということについては、すべてにおいて「フォルク」という語に特別の意味があったことではなかった(注6)。「フォルク」について書くということは、「フェルキッシュ」である、ということをすぐさま意味するものではない。

 たしかに1890年代までにはフェルキッシュ運動は重要な政治運動になっていたとはいえ、ランダウアーがフェルキッシュ運動を肯定的に評価したことは一度もない。他方、フェルキッシュ運動を明確に非難した、ということもない。むしろ彼が単に運動をさして深刻なものとして考慮する、ということがなかった、ということだけのようにも見える。彼の著作の中にフェルキッシュという語が出てくることはほとんどない。

 ここまで述べてきたことから、ランダウアーの思想を「フェルキッシュなロマン主義」と表現することは誤解を招くということが言える(注7)。とりわけ、「ロマンティック」というレッテルは、ランダウアーの思想における「非合理性」を示唆することになってしまいかねないが、そういったものは彼の思想には含まれていない。「25年前」というエッセイのなかでランダウアーは、自分が十代の時に好んでいたロマンティックな考え方をその後克服したのは、彼の個人的そして政治的な発展において決定的に重大な瞬間だったという点を極めて明確に説明している。その後ランダウアーが神秘主義を重視するようになったということについても、非合理主義とは一切関係ない。本書に収録されているパンフレット『革命』とそれ以外のいくつかのテキスト、とりわけ「分離を通じてコミュニティへ」は、この点を明確にしている。ランダウアーの文学に関する関心という観点からも「ロマンティック」というレッテルが不適切であることがわかる。文学に関する記述の中でも、ロマン主義に言及することはほとんどない。むしろランダウアーはそれ以上に自然主義の演劇に関心を持っていたようである(注8)。

 もう一つ、若きランダウアーに決定的な影響を与えたのは、ビスマルクによって制定された、いわゆる「社会主義者鎮圧法」である。同法はドイツ帝国において運動を組織する社会主義者を1878年から90年までのあいだ非合法にした。ただし、結果的に同法は、アメリカ合衆国における労働運動を強化する上で役立つことになる。なぜなら、多くのドイツの社会主義者たちはヘイマーケット事件が起きた1887年頃のアメリカに移民したからである。こうしてドイツ系移民は、アメリカにおけるラディカルな労働運動において重要な存在となった。実際、アメリカ社会を構成する大多数の人びとが、ヘイマーケット事件における爆弾爆発の下手人であるとしてドイツ系移民の子孫を非難したほどである(注9)。

 社会主義者鎮圧法が廃止された直後、1890-91年という年はとくに重要であった。ドイツ社会民主党は、エアフルト党大会で以前の「社会主義労働党」から党名を変更するという議題について話し合った。その後、同党は、数十年間にわたってドイツにおける社会主義運動を支配し続けた。ランダウアーはこの頃にベルリンに転居し、社会主義労働党の若いラディカルなメンバーたちのサークルに加わった。彼らは新たに設立された社会民主党のメンバーであるということが否定された。彼らが集うサークルは、独立社会主義者協会Verein der unabha"ngigen Sozialisten あるいは単純に青年派として知られている。

 改良政党の方針、もしくはマルクス主義にうんざりして(当時のヨーロッパにおける社会民主主義者の間では盤石な地位を築いていたイデオロギーであったが)、不満を抱いた社会民主主義者としてアナーキズムへと向かった他のラディカルな社会主義者と異なり、ランダウアーは一度たりとも社会民主主義者の運動に加わったことはない。「25年前」においてランダウアーは次のように述べている。「私は社会主義者になる前にアナーキストになっていた。社会民主主義を経由しなかったアナーキストというのは、極めてまれな事例である」と。

 ランダウアーはドイツ社会民主党を、残忍な政敵としてしかみていない。死の数週間前、彼はバイエルン革命の期間に議会の会合で次のように述べている。「あらゆる歴史のなかで社会民主党ほど嫌悪感を抱かせる存在は他にない」と(注10)。

注 工事中 

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